手前雑記

春から哲学の大学院生になりました。いまはもう教員養成大学の人ではないです。アカデミックなことは書きません。

朝井リョウ『正欲』覚書き

 多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています。

 自分と違う存在を認めよう。他人と違う自分でも胸を張ろう。自分らしさに対して堂々としていよう。生まれ持ったものでジャッジされるなんておかしい。

 清々しいほどのおめでたさでキラキラしている言葉です。これらは結局、マイノリティの中のマジョリティにしか当てはまらない言葉であり、話者が想像しうる“自分と違う“にしか向けられていない言葉です。

 想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする。そんな人たちがよく使う言葉たちです。(p.6)

 

 多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突き付けられる言葉のはずだ。時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど、自分にとって都合の悪いものがすぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉のはずだ。(p.188)

 

 他者が他者であることの断絶は絶望的である。私は決して他者にはなり得ないし、他者も決して私にはなり得ない。「私」から原理的に断絶している他者は、「私」の存在基盤を脅かす可能性を常に持っている。他者の存在によっていとも簡単に存在基盤を脅かされてしまうほど、「私」という存在は脆弱である。しかし、脆弱であっても生き続けねばならない「私」は、不安を抱えながらも脆い存在基盤にしがみつくほかないのである。

 ‘’多様性‘’という言葉を使うだけで人は正義の側に立ったような気分になれる。その言葉が使われる場面のほとんどで、「私」の存在基盤を脅かしかねない他者のおぞましさは度外視されているのだが、しかし‘’多様性‘’という言葉をわざわざ使うまでもなく‘’多様‘’であるしかない私たちは、たとえ正義の側に立ったとしても常にどす黒い不安を抱えている。

 

 まともって、不安なんだ。佳道は思う。正解の中にいるって、怖いんだ。

 この世なんてわからないことだらけだ。だけど、まとも側の岸に居続けるには、わからないということを明かしてはならない。(p.325)

 

 物語の主人公は、正義の側にいようとする人物(寺井啓喜、神戸八重子)と、正義の枠にどうしても入れない人物(桐生夏月、佐々木佳道、諸橋大也)に大別される。朝井リョウの筆致は、どちらの陣営にも、どの個人にも道徳的な評価を下さない。正義が勝つか、不正義が勝つか、といった安易なモデルにも絶対に回収しない。物語の根底にあるのは、否が応でも‘’多様‘’であるしかない私たちに共通の、だがその中身は各々で異なっている苦しみである。

 

「苦しみには色んな種類があってさ、みんな自分の抱える苦しみに呑み込まれないように生きていきたいだけじゃん。私たちがそうすることで何かが脅かされるって言うんだったらさ、教えてよ。話してよ。何なの、俺らの気持ちがわかるかよとか言って閉ざしてさ。わかんないよ。わかるわけないじゃん。わかんないからこうやってもっと話そうとしてるんじゃん!」(p.342 神戸八重子)

 

 他者を理解することは不可能である。対話すら難しいこともあるかもしれない。しかし、意志さえあれば、他者との関わり合いは停止しない。

 

「何から話して良いのかわからないなら、何からでも話していこうよ!もっとこうして話せばよかったんだよ、きっと。私も色々勘違いしてたし、今でも誤解してることいっぱいあると思う。でも、もうあなたが抱えているものを理解したいとか思うのはやめる。ただ、人とは違うものを抱えながら生きていくってことについては、きっともっと話し合えることがあるよ」(p.349 神戸八重子)

 

  そして、私たちの存在基盤を脅し合っている他者という存在は、しかしごく一部に限って存在基盤を支え合うことができる。

 

「いなくならないから、って、伝えてください」

 啓喜は冷静に「そのような伝言はできない」と言ったが、その後もずっと、確かに聞こえたその一言が頭の中で木霊していた。(p.363)

 

 ごく限られた他者どうしの支えあい(繋がり)による幸福・安堵は、正義の領域から抜け落ちる可能性もあり得る。そうしたジレンマを迎えたとき「生き延びるために本当に大切なもの」が露わになるのかもしれない。