手前雑記

春から哲学の大学院生になりました。いまはもう教員養成大学の人ではないです。アカデミックなことは書きません。

つくばリサイタルシリーズで書いてきた主な原稿

2020年10月12日

The MOST in JAPAN 2020 東京公演レポhttps://recitaltsukuba.hatenablog.com/entry/2020/10/12/210357

 

2021年4月15日

カルテット・アマービレ BRAHMS Plus〈II〉 演奏会レポートhttps://recitaltsukuba.hatenablog.com/entry/2021/04/15/021500

 

2021年5月9日

楽曲紹介:江藤光紀「三つの寓意劇 ―木管五重奏のための(2016)」https://recitaltsukuba.hatenablog.com/entry/2021/05/09/191637

 

2021年12月29日

楽曲紹介: スメタナモルダウ」ー交響詩「我が祖国」よりhttps://recitaltsukuba.hatenablog.com/entry/2021/12/29/181802

 

2022年5月12日

楽曲解説 : シューマン ヴァイオリンソナタ第1番 イ短調https://recitaltsukuba.hatenablog.com/entry/2022/05/12/205359

 

2023年1月8日

曲目紹介: モーツァルト:ディヴェルティメント K.136 ニ長調https://recitaltsukuba.hatenablog.com/entry/2023/01/08/032716
 

 

 

深夜テンションで書いた修了にあたってのFacebookの投稿

ようやく昨日に修士(文学)を取ることができました…コロナ後の体調不良の治療に専念した休学期間を含め4年かかってしまいました。

2019年、大学院に入学してわずか2週間で指導教員(現代思想•対話論)のゼミを離れ(その教員の、ゼミでの院生に対する言行が到底許せなかった)、哲学にも哲学対話にも失望し、途方に暮れていたところを今の指導教員であるカント研究者の先生に拾ってもらったことが、自分の思考の転機となりました。

修論では、アドルノ(20世紀ドイツの哲学者•音楽評論家)が晩年のラジオ講演で、あるべき教育について語る際、カントの「自律」「成熟」といった概念を肯定的に持ってくるのはなぜだろう(アドルノはそれら概念を痛烈に批判していたと一般的に言われているのに)という問いを、著作や講義録の読み直しを通して答えようとしました。修論を審査の先生方は好意的に読んでくださったのですが、私としてはあまり納得がいく出来ではなく…とはいえ大学院で学んだアドルノとカントの哲学は多くの希望を私に与えてくれました。

学部時代は、「有用」な「即戦力」たる教員になれという圧力が、学問を押しのける勢いで大学中にあり(現在の教員養成系の教育学部は私がいた頃よりもはるかにこの傾向が進んでいると思われます。追記:昨日はこのようなニュースが出ました→https://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyoiku/news/20230325-OYT1T50207/2/)、反抗するように学んでいましたが、大学院ではつくばの地で腰を落ち着けて学ぶことができたのが良かったです。自分自身の生をゆっくり時間をかけて(かけすぎましたが)見つめ直す貴重な時間でした。心の治療期間だったと言って良いのかもしれません。

春からは、院生時代にずっと非常勤で働いていた高校に専任で働くことになりました。うまく働けるのか、とか、哲学をする時間があるのか、とか不安は大きいですが…。ご助言等いただけましたら幸いです。来年度は休学しますが博士課程にも籍を置きます(研究する時間が取れるかは…分かりません)。とにかくこの先何があっても、どんな形であれ哲学をし続けたいなと思います。

朝井リョウ『正欲』覚書き

 多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています。

 自分と違う存在を認めよう。他人と違う自分でも胸を張ろう。自分らしさに対して堂々としていよう。生まれ持ったものでジャッジされるなんておかしい。

 清々しいほどのおめでたさでキラキラしている言葉です。これらは結局、マイノリティの中のマジョリティにしか当てはまらない言葉であり、話者が想像しうる“自分と違う“にしか向けられていない言葉です。

 想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする。そんな人たちがよく使う言葉たちです。(p.6)

 

 多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突き付けられる言葉のはずだ。時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど、自分にとって都合の悪いものがすぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉のはずだ。(p.188)

 

 他者が他者であることの断絶は絶望的である。私は決して他者にはなり得ないし、他者も決して私にはなり得ない。「私」から原理的に断絶している他者は、「私」の存在基盤を脅かす可能性を常に持っている。他者の存在によっていとも簡単に存在基盤を脅かされてしまうほど、「私」という存在は脆弱である。しかし、脆弱であっても生き続けねばならない「私」は、不安を抱えながらも脆い存在基盤にしがみつくほかないのである。

 ‘’多様性‘’という言葉を使うだけで人は正義の側に立ったような気分になれる。その言葉が使われる場面のほとんどで、「私」の存在基盤を脅かしかねない他者のおぞましさは度外視されているのだが、しかし‘’多様性‘’という言葉をわざわざ使うまでもなく‘’多様‘’であるしかない私たちは、たとえ正義の側に立ったとしても常にどす黒い不安を抱えている。

 

 まともって、不安なんだ。佳道は思う。正解の中にいるって、怖いんだ。

 この世なんてわからないことだらけだ。だけど、まとも側の岸に居続けるには、わからないということを明かしてはならない。(p.325)

 

 物語の主人公は、正義の側にいようとする人物(寺井啓喜、神戸八重子)と、正義の枠にどうしても入れない人物(桐生夏月、佐々木佳道、諸橋大也)に大別される。朝井リョウの筆致は、どちらの陣営にも、どの個人にも道徳的な評価を下さない。正義が勝つか、不正義が勝つか、といった安易なモデルにも絶対に回収しない。物語の根底にあるのは、否が応でも‘’多様‘’であるしかない私たちに共通の、だがその中身は各々で異なっている苦しみである。

 

「苦しみには色んな種類があってさ、みんな自分の抱える苦しみに呑み込まれないように生きていきたいだけじゃん。私たちがそうすることで何かが脅かされるって言うんだったらさ、教えてよ。話してよ。何なの、俺らの気持ちがわかるかよとか言って閉ざしてさ。わかんないよ。わかるわけないじゃん。わかんないからこうやってもっと話そうとしてるんじゃん!」(p.342 神戸八重子)

 

 他者を理解することは不可能である。対話すら難しいこともあるかもしれない。しかし、意志さえあれば、他者との関わり合いは停止しない。

 

「何から話して良いのかわからないなら、何からでも話していこうよ!もっとこうして話せばよかったんだよ、きっと。私も色々勘違いしてたし、今でも誤解してることいっぱいあると思う。でも、もうあなたが抱えているものを理解したいとか思うのはやめる。ただ、人とは違うものを抱えながら生きていくってことについては、きっともっと話し合えることがあるよ」(p.349 神戸八重子)

 

  そして、私たちの存在基盤を脅し合っている他者という存在は、しかしごく一部に限って存在基盤を支え合うことができる。

 

「いなくならないから、って、伝えてください」

 啓喜は冷静に「そのような伝言はできない」と言ったが、その後もずっと、確かに聞こえたその一言が頭の中で木霊していた。(p.363)

 

 ごく限られた他者どうしの支えあい(繋がり)による幸福・安堵は、正義の領域から抜け落ちる可能性もあり得る。そうしたジレンマを迎えたとき「生き延びるために本当に大切なもの」が露わになるのかもしれない。

啓蒙

啓蒙とは、知らない人を教え導くという意味。啓は教え導くという意味の漢字で、蒙は道理にくらい人、道理を分かっていない人という意味の漢字である。古くは後進的な知識しか持たない人々に先進的な知識を教え広めるという意味に使用された。啓蒙の語は例えば、迷信を信じている人々に科学的な知識を教えて広めるといった意味、文明人が非文明人に物の道理を教えるといった意味に使った。一般大衆を特権階層の人が指導するといった色合いを込めて使われた時代もあった。(weblio辞典)

 

哲学対話に関する葛藤が続いている。哲学対話の実践や研究会には学部生の頃から参加していた。そこでは、哲学対話がいかに素晴らしいのかという話はうんざりするほど聞くものの、哲学対話から距離を取って哲学対話に言及したものはほとんど聞かない。哲学のわかりやすい有効性をひたすらアピールしなければならないという、あまりにも情けなくて世知辛い世の中のせいでもあるのだろう。しかし、それだけではなく、彼彼女たちは心の底から哲学対話の可能性を信じているようにも見えた。

 

生徒が、哲学対話のテーマについて家族ぐるみで考えますと言ってくれた。問いを考えてもらえるのはうれしい。だが、同時に自分の中で暗い感情も渦巻く。哲学の世界に生徒を引きずり込むことは、正当なのか、と。立ち止まって考えることを促すことは、考えるのを放棄することによって生きる術を得ている人を否定することにはならないか。考え‘‘させる‘’ことの暴力性を前にして、どうしたら良いのだろうか。

 

考えさせることが大事だと教育界では耳が痛くなるほど聞かされる。だが、なんのために?考えることがなぜ大事なのかということを考えている教育者はどれほどいるのだろうか。民主主義のためだという理由には納得がいく。だが、その子の人生を豊かにするために、と言われると、ほんとうにそうか?と感じてしまう。自分自身は、考えることなしには生きていけなかった反面、考えることの怖さに怖気付くことの方が多い。

 

「啓蒙とは何か」で、カントは考えることを未成熟からの脱却のためであると説いた。だが、成熟した先に見るものは何か?

 

多くの大学教員や大学院生たちに特徴的な過度な自己表出のあり方は、成熟の証なのだろうか。成熟は疑いなく未成熟の上位概念である。この用語に則って考えると、成熟した人が先に見るものは下方に生息する多くの未成熟者(大衆)であろう。その視点は人を見下す方向に注がれる。考えること・成熟することは、他者に対する優位性のアピール以外にどれほどの物を人間に残すのか。

 

それとも、良い成熟、悪い成熟の姿があるのだろうか。他者を見下さない成熟?倫理的な成熟?そんなものがあるとすれば、いかにしてあり得るのだろうか。

 

考えることの考えは続く(結局、考えることでしか考えることの意味はわからないのかもしれない)

September(Herman Hesse)私訳 R.シュトラウス 4つの最後の歌より

September

Der Garten trauert,
kühl sinkt in die Blumen der Regen.
Der Sommer schauert
still seinem Ende entgegen.

Golden tropft Blatt um Blatt
nieder vom hohen Akazienbaum.
Sommer lächelt erstaunt und matt
in den sterbenden Gartentraum.

Lange noch bei den Rosen
bleibt er stehen, sehnt sich nach Ruh.
Langsam tut er die (großen)
müdgewordnen Augen zu.

 

9月

庭は悲しみ、

冷たく、花の中に雨が沈んでゆく。

夏は身震いしながら

何も言わずに自らの終りと向かい合っている。

 

美しき雨は、葉から葉へと下り

高いアカシアの木から滴り落ちてゆく。

夏は消えつつあるあの庭の夢の中で疲れ、

驚きとともに、微笑をしている。

 

バラの花のもと、夏は依然として立ち尽くし、

死の静けさに、長い時間思いを馳せる。

そして、ゆっくりと

その疲れ果てた大きな目を閉じる。

M.ブーバー『我と汝』を旅する

卒業が無事に決まった。(ほっとした…)

卒業は決まったのだが、4月に進学する別の大学の大学院のふもとに引っ越すまで、いまの大学でまた新たに仲間うちのゼミを開いてもらうように指導教授にお願いした。(まだまだ学び足りない…!)

結果、教授を含めて5人が集まり、ブーバーの『我と汝』を読むことになった。

この本は昨年の春休みも臨時ゼミを開いて皆で読んだ本だ。(確か愛について知りたがっていた哲学の仲間に教授が『我と汝』を勧めたのが読書会の発端だったとか)

そんなわけで、先週から『我と汝』の読書会が始まった。

といっても、全然進まない。一時間の議論でも、本の二ページすら進まない。(なんということだ…)

ブーバーの言葉は、どこを取っても、信じられないくらいの深さがある。だから、彼のたったひとつのフレーズだけでも、延々と議論ができてしまうのだ。

 

今日議論をしたパラグラフを抜き出してみよう。

 

「 汝(Du)との関係は直接的である。我と汝とのあいだには、概念的理解も、予知も、夢想も介在しない。そして記憶さえも、個別性の次元から全体性のうちへ介入することによって変化してしまう。我と汝とのあいだには、目的も、欲念も、先取も介在しない。そして憧憬さえも、夢から事実のうちへ突入することによって変化してしまう。あらゆる仲介物は障碍なのだ。あらゆる仲介物がくずれ落ちてしまったところにのみ、出会いは生ずるのである。」(田口義弘訳p.18)

 

まず最初に言わなければならない最も重要なことは、ブーバーは二つの根元語「我−汝」(lch - Du)と「我-それ」(Ich - Es)を使って論全体を構築しているということである。この二つの根元語を分けるものは、ざっくりと言ってしまえば、その間柄が交換可能であるか、交換不可能であるかの違いといえるだろう。(もちろん、「我−汝」の関係性が交換不可能なものである。)

 

ブーバーによれば「あらゆる現実的な(真の)生は出会いである」(Alles wirkliche Leben ist Begegnung.)

私(Ich)があなた(Du)に出会うとき、私はあなたの全体と出会う。それは、あなたがどんな人間であるか(概念的理解)とか、あなたがどんな人間だとわたしが思い描いているか(夢想、憧憬)とか、あなたがどんな人間であったか(記憶)とか、そういった個別的な事象は、出会いという現実の前に崩れていく。

ブーバーは、私とあなた(Ich und Du)の出会いにのみ現実的で真の生を見出すのだ。

 

だからブーバーは、「我と汝はいつかある時、どこかある場所において対面するのではない」(p.14)と述べる(「あの日 あの時 あの場所できみに会え」ない)。私とあなたが出会うということは、客観的な時間軸、地軸をも超えていく。ブーバーによれば、出会いこそが生の現実であるからだ。

 

参考文献

M. ブーバー『我と汝・対話』田口義弘訳、みすず書房、1978年