手前雑記

春から哲学の大学院生になりました。いまはもう教員養成大学の人ではないです。アカデミックなことは書きません。

啓蒙

啓蒙とは、知らない人を教え導くという意味。啓は教え導くという意味の漢字で、蒙は道理にくらい人、道理を分かっていない人という意味の漢字である。古くは後進的な知識しか持たない人々に先進的な知識を教え広めるという意味に使用された。啓蒙の語は例えば、迷信を信じている人々に科学的な知識を教えて広めるといった意味、文明人が非文明人に物の道理を教えるといった意味に使った。一般大衆を特権階層の人が指導するといった色合いを込めて使われた時代もあった。(weblio辞典)

 

哲学対話に関する葛藤が続いている。哲学対話の実践や研究会には学部生の頃から参加していた。そこでは、哲学対話がいかに素晴らしいのかという話はうんざりするほど聞くものの、哲学対話から距離を取って哲学対話に言及したものはほとんど聞かない。哲学のわかりやすい有効性をひたすらアピールしなければならないという、あまりにも情けなくて世知辛い世の中のせいでもあるのだろう。しかし、それだけではなく、彼彼女たちは心の底から哲学対話の可能性を信じているようにも見えた。

 

生徒が、哲学対話のテーマについて家族ぐるみで考えますと言ってくれた。問いを考えてもらえるのはうれしい。だが、同時に自分の中で暗い感情も渦巻く。哲学の世界に生徒を引きずり込むことは、正当なのか、と。立ち止まって考えることを促すことは、考えるのを放棄することによって生きる術を得ている人を否定することにはならないか。考え‘‘させる‘’ことの暴力性を前にして、どうしたら良いのだろうか。

 

考えさせることが大事だと教育界では耳が痛くなるほど聞かされる。だが、なんのために?考えることがなぜ大事なのかということを考えている教育者はどれほどいるのだろうか。民主主義のためだという理由には納得がいく。だが、その子の人生を豊かにするために、と言われると、ほんとうにそうか?と感じてしまう。自分自身は、考えることなしには生きていけなかった反面、考えることの怖さに怖気付くことの方が多い。

 

「啓蒙とは何か」で、カントは考えることを未成熟からの脱却のためであると説いた。だが、成熟した先に見るものは何か?

 

多くの大学教員や大学院生たちに特徴的な過度な自己表出のあり方は、成熟の証なのだろうか。成熟は疑いなく未成熟の上位概念である。この用語に則って考えると、成熟した人が先に見るものは下方に生息する多くの未成熟者(大衆)であろう。その視点は人を見下す方向に注がれる。考えること・成熟することは、他者に対する優位性のアピール以外にどれほどの物を人間に残すのか。

 

それとも、良い成熟、悪い成熟の姿があるのだろうか。他者を見下さない成熟?倫理的な成熟?そんなものがあるとすれば、いかにしてあり得るのだろうか。

 

考えることの考えは続く(結局、考えることでしか考えることの意味はわからないのかもしれない)