手前雑記

春から哲学の大学院生になりました。いまはもう教員養成大学の人ではないです。アカデミックなことは書きません。

M.ブーバー『我と汝』を旅する

卒業が無事に決まった。(ほっとした…)

卒業は決まったのだが、4月に進学する別の大学の大学院のふもとに引っ越すまで、いまの大学でまた新たに仲間うちのゼミを開いてもらうように指導教授にお願いした。(まだまだ学び足りない…!)

結果、教授を含めて5人が集まり、ブーバーの『我と汝』を読むことになった。

この本は昨年の春休みも臨時ゼミを開いて皆で読んだ本だ。(確か愛について知りたがっていた哲学の仲間に教授が『我と汝』を勧めたのが読書会の発端だったとか)

そんなわけで、先週から『我と汝』の読書会が始まった。

といっても、全然進まない。一時間の議論でも、本の二ページすら進まない。(なんということだ…)

ブーバーの言葉は、どこを取っても、信じられないくらいの深さがある。だから、彼のたったひとつのフレーズだけでも、延々と議論ができてしまうのだ。

 

今日議論をしたパラグラフを抜き出してみよう。

 

「 汝(Du)との関係は直接的である。我と汝とのあいだには、概念的理解も、予知も、夢想も介在しない。そして記憶さえも、個別性の次元から全体性のうちへ介入することによって変化してしまう。我と汝とのあいだには、目的も、欲念も、先取も介在しない。そして憧憬さえも、夢から事実のうちへ突入することによって変化してしまう。あらゆる仲介物は障碍なのだ。あらゆる仲介物がくずれ落ちてしまったところにのみ、出会いは生ずるのである。」(田口義弘訳p.18)

 

まず最初に言わなければならない最も重要なことは、ブーバーは二つの根元語「我−汝」(lch - Du)と「我-それ」(Ich - Es)を使って論全体を構築しているということである。この二つの根元語を分けるものは、ざっくりと言ってしまえば、その間柄が交換可能であるか、交換不可能であるかの違いといえるだろう。(もちろん、「我−汝」の関係性が交換不可能なものである。)

 

ブーバーによれば「あらゆる現実的な(真の)生は出会いである」(Alles wirkliche Leben ist Begegnung.)

私(Ich)があなた(Du)に出会うとき、私はあなたの全体と出会う。それは、あなたがどんな人間であるか(概念的理解)とか、あなたがどんな人間だとわたしが思い描いているか(夢想、憧憬)とか、あなたがどんな人間であったか(記憶)とか、そういった個別的な事象は、出会いという現実の前に崩れていく。

ブーバーは、私とあなた(Ich und Du)の出会いにのみ現実的で真の生を見出すのだ。

 

だからブーバーは、「我と汝はいつかある時、どこかある場所において対面するのではない」(p.14)と述べる(「あの日 あの時 あの場所できみに会え」ない)。私とあなたが出会うということは、客観的な時間軸、地軸をも超えていく。ブーバーによれば、出会いこそが生の現実であるからだ。

 

参考文献

M. ブーバー『我と汝・対話』田口義弘訳、みすず書房、1978年